宮崎県西都市大字妻。旧県社(現、別表神社)。 木花開耶姫命を祀る。創立年代不詳。『続日本後紀』によると、承和四年(837)8月朔、官社に預かっている。『3代実録』によると、天安2年(858)10月22日に従五位上から従四位下が授けられている。延喜の制(927)には小社に列し、祈年の国幣に預かった。中世には、妻宮,妻万宮・日向総廟五社大明神などと称され、武家、領主の尊崇が篤かった。建久の頃には、98丁の神領を持っていたといわれる。天正年間、島津義久が社殿を改築したという。慶長6年(1601)9月1四日、佐土原藩主島津氏は、供田315石5斗4升8合を寄進、神人30戸を定めるとともに、年問75度の祭祀を厳修させたと伝えられている。当社は、一ツ瀬州の中流域に発達した神社であり、この付近は、西都原古墳群で有名な場所である。またこの地には、国府が置かれ、その後、急速な発展を遂げた社である。鎌倉時代に入ると、日向国四式内社の中では、最も多く社領を持つようになり、その後、実質的には、最も実力のあった社となった。また往古、末社四四社、神官三30余家、社僧二家あったともいわれている。明治6年(1873)、県社に列格した。境内の大楠は、天然記念物に指定されている。例祭2月18、19日。神輿渡御の神幸があり、つくり人形や舞踏などの催しがあり、全市をあげてのにぎやかなものである。旧暦の7月7日には、更衣祭、旧暦11月2日には鎮火祭が行われる。当社は、また妻万の音読から「さいまん様」と称され、市民に親しまれている。
◎特殊神事“更衣祭” 7月7日に行われる都萬神社の更衣祭は日本のお祭りの中でも最も珍しい祭典行事です。祭神コノハナサクヤヒメとニニギノミコトが逢初川初めて出会い、長狭神(ナガサノカミ)の媒介によりお嫁入りした古事そのままの姿を再現する神事で、晴れの婚礼衣裳をサクヤヒメの像に着付け、白粉や口紅をつけ角隠しの帽子をかぶせ、花嫁姿になる様子を再現します。この神事が日本の婚姻儀礼の始まりであると社伝にあります。当日は午後三時まで可愛らしい清らかな姿を神殿正面に遷座、その間一般参拝者に拝観が許されます。
■木花佐久夜姫物語
高天原から降臨したニニギノミコトは、この地を歩いていたとき、水くみに来ていたコノハナサクヤヒメに出会い、結婚を申し込みます。その出会いの場所は、今も逢初(あいぞめ)川と呼ばれて残っています。 ここには、コノハナの美しさに魅かれている鬼もいました。父神・オオヤマツミノカミに、コノハナをほしいと申し込んだところ、オオヤマツミは断り切れず、一計を案じて鬼に言いました。 「一夜で岩の御殿を造ってくれたら、コノハナをやろう」 鬼は喜んで一晩中働き、鬼の岩屋と呼ばれている古墳を造りました。オオヤマツミは、鬼がうたた寝をしている間に、岩屋の石を1つ抜いて遠くに放り投げました。この石が落ちたところが西都原古墳群のふもとにある石貫です。後にオオヤマツミが祭られて石貫神社となりました。オオヤマツミは、鬼に「この宮は石が1つ足りない」と言って、娘を鬼にやりませんでした。 ところで、結婚したニニギとコノハナが生活した御殿を八尋(やひろ)殿と言い、コノハナが戸のない産屋に入って火をかけ、お産をしたところを無戸室(うつむろ)と言います。その跡と伝わるところが、それぞれ残されています。 石貫神社から古墳群のある台地に石段を上がると、すぐ右手に、オオヤマツミの墓と伝承される古墳があり、また、コノハナが子どもを産んだとき、産湯に使った水のあるところを「児湯の池」と言い、今もその池が残っています。 都万神社のあるところを妻と呼ぶのは、ニニギがコノハナと出会い、「あなたを妻にしたい」と言ったところから、この地名が起こったと伝えられています。 西都原古墳群には、300基以上の古墳があり、ニニギの墓と伝わる男狭穂塚は全長219メートル、またコノハナの墓と伝わる女狭穂塚は全長174メートルもあります。この巨大古墳が築造されたのは、5世紀前半と推定され、日向人の祖先神話の聖跡として知られています。
住所:宮崎県西都市三宅4430近辺 (稚児池の北側) TEL:0983-43-1238
宮崎市観光協会