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天照大御神 ににぎのみこと 木花佐久夜姫 山幸彦 海幸彦 豊玉姫 神武天皇
ドラマティックな誕生から暗転

 「火の盛りに燃ゆるときに生まれたる子の名は、火照の命(こは隼人(はやと)阿多(あた)の君の祖なり)」・・・。ウミサチの誕生は威勢がいい。父は天孫・迩迩芸命(ににぎのみこと)、母は大山津見の神の女・木の花咲夜姫(このはなのさくやひめ)、麗き美人(かおよきおとめ)だ。こんな素晴らしい父と母を持ち火中出産というドラマティックな登場であり、それも火が燃え盛る中に生まれ出てくる大物ぶり。しかし一方では、貸したくなかったのに、3度も頼まれ渋々弟・ヤマサチに釣り針を貸してしまったばっかりに、最後には弟の家来になることを約束してしまった運のない人でもある。実直に海での漁を続けていただけで悪人でもないのに、もとはと言えば大切な釣り針を駄々をこねて借りた上に失くしてしまったヤマサチのほうが悪いと思うのだが、なぜかヤマサチは周りの人に助けられて成功していく。

海の幸を約束された釣り針

 天孫・ニニギの子どもの内、兄・火照の命は海の魚を収獲する海の幸のある男(海幸彦)、弟・火遠理の命は山の鳥獣を獲る山の幸のある男(山幸彦)だった。「海の幸」とは海の威力であり道具に宿る。海からの恵みも「幸」であり幸を得る道具もまた「幸」だ。兄も弟もそれぞれ海と山からの豊富な収獲を約束されていたのだ。しかしなぜかヤマサチはウミサチに「道具を取り替えて欲しい」と頼む。3度頼んでもウミサチは承知せず最後にようやく承諾するが、ヤマサチは獲物が獲れないばかりか海で釣り針を失くしてしまった。「幸」の宿る釣り針が他のものと替わるはずがない。たとえ弟が剣をつぶして500個の針をこしらえようが1000個の針をこしらえようが、元の針のような力はそれらの針には宿っていないのだから。

ウミサチヒコ
ウミサチは何故ヤマサチに仕えるようになったのか

 数年後、弟ヤマサチが海の宮から戻り、釣り針を返してもらったがそのときにウミサチはヤマサチに呪文をかけられてしまう。「ウミサチが高い所に田を作ったら低い所に田を、低いところに作ったら高い所に田を作りなさい」。ヤマサチは海の神にそう指南されていた。水をつかさどる海の神が水を操って、3年の間に呪文通り貧しく愚かになったウミサチが弟を攻めてくる。「塩盈玉(しおみつたま)を使ってウミサチを溺れさせなさい。ウミサチが謝ってきたら塩乾玉(しおひるたま)を使って潮を引かせなさい」と、弟は戦いに勝利する方法まで教えられているので、最初からウミサチには勝ち目はなく「今後はあなた様の昼夜の守護人となって仕えましょう」とヤマサチに誓う。ウミサチはハヤトの祖であるので、この物語の最後は、「だからハヤトはその溺れたときの様子を演じ、そして今も仕えているのだ」と結んでいる。

ウミサチ・ヤマサチは隼人族が朝廷に服従する由来の物語

 古事記が、中央集権国家を天皇が統治するための根拠となるよう作られたのだとすると、ウミサチ・ヤマサチの物語は、ウミサチに表される「力を持っていた地方豪族」が、やがてヤマサチに表される「大和朝廷」に従属していくストーリーと読むことができる。火を付けた産屋が勢いよく燃える中、産まれてくるウミサチは勢力のある豪族そのものだ。しかも天皇家の祖になる運命にあるヤマサチとは兄弟という設定。反乱の絶えなかった隼人族は、実は朝廷とつながっているという神話にすることで、隼人族が朝廷へ服従して奉仕する根拠を作り出した。隼人族は古代の南九州、今の鹿児島県を中心に住んでいた人々で、反乱の絶えない「気になる」存在だった。反乱は5回ほどが記録に残っているが特に養老4(720)年の乱は「斬首獲虜合千四百余人」と『續日本史』が伝える激しいものだった。戦いは1年半近くにも及び隼人が敗北する。

ヤマトはなぜ反乱したのか

 反乱の原因は律令制に組み込まれることへの反発だ。戸籍を作り、これに基づいて田んぼが支給され、その収穫から祖が徴収される「班田収授法」は稲作を基盤にしている。しかし、ハヤトの住む南九州は火山灰に覆われ稲作には向いてなかった。狩猟や焼き畑に頼る生活をしていたハヤトにとって稲作を基盤にした律令制や公地公民の考え方は受け入れ難いものだった。
 大和朝廷からするとハヤトは言語や風習の異なる「異民族」であったが、平安朝にはハヤト舞が大嘗祭で舞われている。異民族の声には魔物を追い払う力があるとされており、ハヤトが吠えながら天皇の警護にあたるというしきたりは7、8世紀には確立し律令制の官職のひとつになっている。敗れたハヤトの人々がヤマト政権の支配下に組み込まれた一例だ。

ウミサチヒコを主祭神として祀っているのは宮崎だけ

 ウミサチの子孫たちはその後400年の間、任期8年(後年は6年)の朝貢が義務づけられた。『日本書紀』に、第21代雄略天皇(在位456年~479年)が崩御した年の10月9日のハヤトの記述がある。「大泊瀬(雄略天皇)の墓守りをしていたハヤトが昼夜号泣した。食事も獲らず7日目に死んだので近くに葬ってやった」。「隼人174人、布50常、牛皮6枚、鹿皮50枚」という貢物リストの記述も日本書紀に見られる。歩いて50日はかかる長旅を、貢物を馬に乗せ運んだと思われる。
 宮崎には古事記にはない話が伝わっている。敗れたウミサチは岩船に乗って逃げ延び、流れついたところが日南市北郷町の宿(しゅく)野(の)だったという。ウミサチを主祭神とする神社は全国でもこの地に建つ潮嶽(うしおだけ)神社だけ。ウミサチ・ヤマサチの故事に習って地元では針の貸し借りをしないとか。

天照大御神 ににぎのみこと 木花佐久夜姫 山幸彦 海幸彦 豊玉姫 神武天皇

宮崎市観光協会 http://www.miyazaki-city.tourism.or.jp/